悲しい恋の唄を専門にする歌手のことをトーチ・シンガー (Torch Singer) というが、米国ポピュラー音楽史では、その第一人者はヘレン・モーガンとされている。
過去にマリ・クレール誌の座談会 (その後、書籍化された) で淀川長治さんが、彼女について語り尽くされ、「ぼくのほんとの、いまだに神様なの」といわれている。戦時中、野口久光さんの家の押し入れで、こっそりとサンフランシスコ局のラジオ短波放送を聞かれていると、その放送でやっていた座談会にヘレン・モーガンの声が流れてきて夢中になったというお話も披露されている。
淀川さんによれば、ヘレン・モーガンはもぐりの酒場をたくさん持っていて (禁酒法の時代である)、しょっちゅうニューヨークの警察に引っ張られたが、当時のニューヨーク市長は彼女のファンであったため、すぐに釈放され、そうするとまた人気が出るということであったらしい。舞台に出るときは酒をひっかけ、下手の方に置いてあるピアノに腰掛けて歌うのが、スタイルだったという。ヘレン・モーガンはブロードウェイ最高の「芸者」であるというのが、淀川さんの見立てである。
彼女が初主演した映画がルーベン・マムーリアン監督の『喝采』(Applause, 1929) である。ルーベン・マムーリアン監督も、ジョージ・キューカーやジョン・クロムウェル監督などと同じく、トーキーの時代を迎えてブロードウェイから映画へ移ってきた人で、この作品がマムーリアンの監督処女作になる。トーキー初期は騒音の問題で、キャメラを防音箱に入れ固定して撮影する監督がほとんどであったが、この作品ではキャメラがよく動く。しかし、グラグラした移動やパンなどが結構あって、キャメラが動く必然性も感じられず、ちょっと邪魔な気がする。
この映画、撮影はハリウッドではなく、ロングアイランド、クイーンズにあったパラマウント社のアストリア・スタジオで撮影されている。アストリア・スタジオの作品は、この当時ハリウッドよりも、むしろ格上だったと淀川さんはいわれている。また、ロケーション撮影では、当時のニューヨーク市の様子が生々しく映っていて、これは非常に珍しい。このニューヨークの撮影所は、現在も東海岸最大の撮影所「カウフマン・アストリア・スタジオ」となって残っている。
彼女の有名な歌に “Why was I born?” がある。
Why was I born? Why am I living?
What do I get? What am I giving?
Why do I want a thing I daren't hope for?
What can I hope for? I wish I knew
Why do I try to draw you near me?
Why do I cry? You never hear me
I'm a poor fool, but what can I do?
Why was I born to love you?
1929 年 9 月 4 日水曜日のニューヨーク・タイムズの劇評は、ブロードウェイ・ミュージカル “Sweet Adeline” についてであった。高評価とは言い難いその劇評の中で、評者はこう書いている。
As the beer garden vocalist who subdues New York on the stage, Miss Morgan sings in the pensive, gently melancholy mood that has long endeared her to the sympathetic citizenry out front, and she looks extravagantly beautiful in the coiling gowns of nineties.
このミュージカルで、 “Why was I born?” は初めて唄われたのである。
この頃から、ブロードウェイの劇場主との不倫、舞台の相手役との恋、初めての結婚のあっという間の破綻などが重なり、ヘレン・モーガンはアルコールへの依存を強めていく。1941 年に肝硬変により 41 歳で亡くなるが、その 5 年ほど前の映画『ショーボート』(Show Boat, 1936) に彼女はジュリー役で出演し、無難に役を務めたものの離婚も経験した年であり、すでに重度のアルコール中毒であった。
ヘレン・モーガンは、そもそも映画の『ショーボート』に先立って、ブロードウェイ・ミュージカル『ショー・ボート』のオリジナル公演のときから混血女性ジュリーを演じている。『ショー・ボート』のオリジナル初演は、1927 年 12 月 27 日で、1929 年の 5 月 4 日まで、計 572 回の公演となっている。その後、リバイバルで 1932、46、48、54、83、94 年に公演されている。『ショー・ボート』の本と作詞は、ほとんどをオスカー・ハマースタイン 2 世が手がけている(“Bill”, “Goodby, My Lady Love”, “After the Ball” は除く)。ハマースタイン 2 世は、『オクラホマ!』(1955)、『南太平洋』(1958 *1 )、『王様と私』(1956)『サウンド・オブ・ミュージック』(1965, エーデルワイスなど一部の曲の作詞)などを手がけたことでよく知られている。また、作曲の多くはジェローム・カーンであるが、“Goodby, My Lady Love”, “After the Ball” は異なる。
「ショーボート」の映画化は 3 度されており、1929 年はユニバーサル作品で、ハリー・A・ポラード監督。1936 年もユニバーサルでジェイムズ・ホエール監督。1951 年は、MGM でジョージ・シドニー監督。ヘレン・モーガンは 1929 年と 1936 年のものに出演している。
この 3 本のうち、どれか 1 本をあえて選択するならば、1936 年版がもっともよいと思っている。理由は、まずジェイムズ・ホエール監督だからである。自殺したため 10 年余りの活動期間しかないホエールはいうまでもなく『フランケンシュタイン』(1931)、『透明人間』(1933)、『フランケンシュタインの花嫁』(1935) といった、名高いユニバーサル・ホラーの監督である。水辺での少女とフランケンシュタインのシーンの素晴らしさを覚えている人は、ミシシッピ川が舞台のこの映画でも当然期待してよい。
次の理由は、この黒人差別をとりあげたミュージカルの重要な役柄であるジュリーをヘレン・モーガンが演じていること。
3 番目の理由は、この映画の製作がユニバーサルにおけるレムリ家による支配の終焉のきっかけになったこと。ユニバーサルは、カール・レムリ・ジュニアが指揮をとっていたが、1929 年のヒット作『ショーボート』をさらに贅沢にリメイクしようとして多額の資金をつぎ込もうとしたため、株主から反発を買いその結果資金繰りの悪化を招きレムリ家がユニバーサルから追い出される引き金となったのである。しかし、投資家の反対を押し切って製作した興行成績は大成功だった。1929 年の作品は、もともとサイレントとして企画され、原作の映画化であってミュージカルの映画化ではない。後からトーキーにしたもののツギハギ状態であり、ユニバーサルがリメイクしたかったのは、もっともな話だと思う。
最後に、1950 年代の作品は赤狩りの影響で、こういった黒人差別のようなリベラルなネタに対して規制がかかっている側面がある。
“Ol' Man River” をジョー役のポール・ロブスンが歌っているシーンは、彼を川辺に座らせて、ナイフで木を削らせる演出が実にいいと思う。ロブスンは低音が非常に力強く、魅力的である。
ブロードウェイのオリジナル公演こそ参加していないが、1932 年のリバイバル公演でもロブスンは同じジョー役をやっていた。彼はコロンビア大学のロースクールを出た人で、1950 年代は公民権運動、政治活動でパスポートまで取り上げられており、50 年代の映画には出演できない。
作品中で最も有名な曲が、“Ol' Man River” とともに “Can't Help Lovin' Dat Man” である。
この曲は数多くの歌手達によって唄われているが、代表する歌い手はやはりヘレン・モーガンであろう。モーガンは、 1936 年のジェームス・ホエール監督版作品の中で歌っている他、1928 年と 1932 年のレコードが残されている。下は 1928 年のもの。
エヴァ・ガードナーは 1951 年版の『ショー・ボート』にジュリー役で出演しているが、歌はアネッテ・ウォーレンが吹き替えたものである。なお、吹き替え前のエヴァ・ガードナー自身の声によるものも、YouTube で紹介されている。1957 年の映画『追憶』(マイケル・カーティス監督, 1957)は、ヘレン・モーガンの伝記映画で、アン・ブライスがヘレン・モーガンの役をやっている。しかし、淀川さんに言わせると、まるで青山の女学校の級長が新橋の芸者を演っているみたいなもんで全然違うと散々である。座談会では、アン・ブライス自身が歌ったように書いているが、これはゴギ・グラントによる吹替えである。その他、エラ・フィッツジェラルド、ビリー・ホリデイ、ジュディ―・ガーランドなどがカバーしている。
*1:映画作品公開年度、以下同じ