ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

わかりやすい話

これだけ「わかりやすさ」が求められる時代にあって「わかりやすさ」は、いまや「嘘をついている」ことの同義語である。「わかりやすさ」とは、すなわち「世の中の常識」という「嘘」の別名を無批判、無自覚に適用することに他ならない。世の中で語られているほとんどすべてのことは嘘と言ってよい。政治家の発言はもちろん、インターネットや新聞の情報には多くの嘘が紛れ混んでいる。たとえば映画の題名や監督の名前を検索するとトップに出てくる日本語 Wikipedia の記述なんかは、そもそも読むに堪える検証された情報ではなかろう。

現実に存在する重要なものは、具体的ではあるが普通の人にとっては目にはとまりにくい「わかりにくい」細部であることがしばしばである。はじめはそんな細部に何の意味があるのかと思うが、複数の細部を根気よく顕在化していく過程で、それらは当初思いもよらなかった関係を結び始める。その過程が、「事件」「出来事」「創造」である。愚鈍になりきり細部を見続けるなら、世界は「わかりやすさ」とは少し変わって見えてこないだろうか。ジョナス・メカスはこう言ったではないか。

筋書きなど、芸術や人生において、何の意味があろう? 問題なのは細部、微妙さ、ニュアンスである。 

たとえば、映画や音楽の細部の「わかりにくさ」に触れたところで、ファシズムに対抗できるというわけではないと思うかもしれないが、ファシズムに対抗していたのは、結局、戦争中押入れの中でヘレン・モーガンのラジオ放送を聴いていた淀川長治さんや、日本の宣戦布告の日にトミー・ドーシーのレコードをかけていた瀬川昌久さんみたいな人達ではあるまいか。その人達は、別にアメリカからの「わかりやすい」メッセージに興奮していた訳ではない。アメリカの画面や音の微妙な「わかりにくさ」に純粋に興奮して関心を寄せていたのである。あの時代の一部の日本人はアメリカ人以上に米国の映画やポピュラー音楽のことを勉強していた。淀川さんや瀬川さんに留まらず、小津作品の大部分のキャメラを担当した厚田雄春さんは、アメリカ映画を見れば撮影監督が誰かをピタリと言い当てた。戦後ではあるが、雪村いづみさんは友達の家にあったレコードを何度も何度も聴いて英語を覚えてしまった。「わかりやすい」メッセージしか受け取ろうとしない人間にそんな真似ができるだろうか。そういった人にとって作品とは「ネタバレ」が終わってしまえば価値を喪ってしまう「コンテンツ」という「わかりやすさ」を消費するものなのだ。

「変革」という妙に角張った漢字を使いたがる人の話が退屈である理由はたくさん挙げることができると思うが、その一つの理由として、現在の問題をその場限りのものとしての「わかりやすさ」でしか捉えていないということがある。「わかりやすさ」のために地球の他の場所で過去に類似したことが起きていたかもしれない事実の検討が抽象化されてしまっているのだ。「新しいものは新しい」「古いものは古い」というのは当たり前だが「質的な変化」とは、むしろ「新しいものが古い」「古いものが新しい」というようなパラドキシカルな「わかりにくさ」において生じる。そうした変化の核となりうるのは、具体的な細部であり抽象的な「わかりやすさ」によって変化が始まるのではない。

SP 盤とそれを再生する蓄音器が映った YouTube で音楽を聴くと、音を記録し、複製し、再生する過程を原理として「わかりやすく」抽象化してしまえば何も本質は変わっていない。原理には変化はないのである。変化させることができるのは、それが可能な細部だけである。何が変化していて、何が変化していないかを識別することにも、歴史的な視点は必要であろう。そして単に枠組みを変えるだけでは変化は起きない。真の変化はその与えられた制約の中で、最大限の自由を獲得しようという個々のそれぞれ異なる「わかりにくい」複雑な運動に関わっているのである。

複雑性の科学の成果が教えてくれることや最近の機械学習の進展は、創造が特別な人に下される神の託宣でもなんでもなく、ごく普通の人間の認知活動にもとづくものであることを教えてくれる。それにもかかわらず、創造が不得意な人と得意な人とに分布してしまうのは、自らの内なる前提条件である「わかりやすさ」から逸脱した試行をしている回数と「わかりやすさ」に捕らわれた試行をしている回数の比のようなもので決まるのではないかと思う。つまり、ある閾値があって、比がその閾値を超えない限り「創造」は起きない。人間は、暗黙的にしろ明示的にしろなにかの前提条件が与えられないと思考が出来ないこのうえなく不自由な存在である。しかし、決められた条件の範囲内では、どうしてもうまくいかないことは往々にしてある。その場合は制約条件自体を別のものに改めなければ堂々巡りからは抜け出せない。そこから抜け出して新しい適切な制約条件に移行するためには、その先駆けとして制約条件の枠をはみ出す多様なアイデアを一定の割合以上で出現させることが必要なのだと思う。「着眼点」というのはその新たな制約条件への移行のもとになる細部のことである。たとえば、エルヴィス・プレスリーがアーサー・クルーダップの音楽を模倣してデビューしたとき「白人は白人音楽をやる」「黒人は黒人音楽をやる」のは、「わかりやすい」前提条件と思われていた。プレスリーがそれを逸脱し「白人が黒人音楽を模倣する」ことこそが「創造」なのである。

バブルの時代に「日本は欧米の物真似ばかりして、おいしいところだけを奪っていく」という欧米諸国の「わかりやすい」嘘の批判に対して、日本のメディアはほぼ一斉に「日本はこれからもっと創造的なものを育てていかなければならない」などという趣旨の発言をしていた。その発言自体は「わかりやすい」かもしれないが、ただ批判に同調していて創造性のかけらもない。日本が模倣していたのは国として若く生命力が充実していたからである。その模倣が模倣のままで創造に変わらないのは、一定割合の逸脱したモノの見方や行動の「わかりにくさ」を許容しようとせず「わかりやすさ」ばかり追求するからである。反復すること自体は、善でも悪でもなく人間の生と同義語である。G・K・チェスタトンはこう書いている。

特別面白い遊びや冗談が見つかった時、子供はどうするか。同じことを飽くこともなく繰り返しているはずだ。子供がリズムに合わせて地面を蹴りつづけるのは、活力が足りないからではなく、ありあまっているからだ。子供は活力にあふれているからこそ、力強く自由な精神に恵まれているからこそ、同じことを何度でも繰り返し、繰り返しつづけて飽きることを知らぬのだ。子供はいつでも「もう一度やろう」と言う。

「なにかを見る」という言葉を「わかりやすく」使うことから「非創造的なモノの見方」が始まる。普通の人間が何かを視界に入れたとき、視界のすべての要素に満遍なく目配せをすることなどあり得ないし、視界のすべての要素の間の関係を把握することなどありえない。「なにかを見る」というのは、視界の要素のあるものには重みを増やし、それ以外の要素は重みを軽くしたり、あるいは完全に切り捨てていることによって成立しているのである。そうすると、視界の要素の何に重みをつけるかは、人それぞれで違っていいはずだが「わかりやすさ」はそれを許さない。「わかりやすさ」に捕らわれている人がする視覚要素の選択は、結局妙に似通っているものになりがちである。創造的に見るためには「わかりやすさ」の制約の外に具体的にあるはずの「わかりにくい」視覚要素の出現頻度を意識の中で増やすメタ的な認知が必要である。制約緩和を意識の助けで強化するには、「わかりやすさ」とはメタ的なものに過ぎないと認知する訓練が必要なのだ。あなたが「わかりやすさ」だと思っているものはメタ的なものであり、それが実際にどの要素が、どのように関係しあって具体的に成立しているのかを意識レベルで反省的に触知すること。つまり「わかりやすさ」の意味ではなく、表現レベルの「わかりにくさ」を具体的に認知してあなたがどの視覚要素を選択し、重きを置いているかについて意識的であること。なにかが変化したと思ったら、それは具体的に新たに導入された何によってそういう風に思えたのかを意識していくこと。そうして、その新たに導入された視覚的要素への重みを意識的に増やしてみること。そうしたことを続けることで、「わかりやすさ」の外にあるものが見えてくるのかもしれない。

「わかりやすさ」を求める人が絶対に読もうとしない本は、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』である。しかし、『差異と反復』の序論である「反復と差異」の一番最初の文章、

反復は一般性ではない。

という文は、英語に訳したって

Repetition is not generality.

であり、文法的には至極「わかりやすい」文章である。この文章を

反復と一般性は、類似している面もあるが同じであるとはいえない。

と読んでみる。ドゥルーズが噛みついているのは、二つのもののニュアンスの差を無視して、なんでも「わかりやすく」「同じ」とみなしたがることに対してである。二つのものが類似しているということは、「同じ」ということではない。「違い」があるから類似があるのである。逆をいえば、二つのものを比較して相違があるということは、全然別のものであるということを意味しない。どこかに共通に測れる「同じ」尺度があるから「違い」があるのである。「同じ」という「わかりやすさ」を拒否するドゥルーズは、「反復」は「同じ」ことを繰り返すことだという「わかりやすさ」も拒否する。一回、一回の繰り返しに対して、「違い」が含まれている反復は現実に存在するではないか。演奏家が「同じ曲」を演奏したとしても、それは演奏家が違えば異なる。一人の人間が「同じ曲」をくりかえし演奏する場合でも、演奏が上達していくとか、解釈が変わっていくとかの「違い=差異」が存在するはずである。

ドゥルーズは、なぜ、反復における「違い=差異」を強調することで「わかりにくさ」を選択するのであろうか。それは、反復から差異を取り払った「わかりやすい」機械的反復では、人間の生きる意味が失われてしまうからである。

「わかりやすさ」が生きる意味として人を動かすために与えるものは「目標」や「問題」である。「目標」や「問題」とは、現在ないものであり、それは「欠如」である。その「欠如」を埋めるために人は行動するというのが「わかりやすい」行動原理である。ドゥルーズはそうは考えなかった。彼は「反復」が差異を含む側面から「絶対的差異」というべき「わかりにくさ」を考えた。比較にもとづく差異は、結局は共通のものさしにもとづく測定が必要であり、それでは「同じ」ものが生き残ってしまうからである。それは、誰かを理由もなく好きになるという具体的な「わかりにくさ」の経験をした人であればすぐに了解できることである。その人を好きになったのは、他の人との比較によるものではない。そういった比較を欠いた愛が存在することを知らない不幸な人は、一般性の「わかりやすさ」の領域に住んでいる。「反復」は一般性のように「欠如」から行動が発生するのではない。行動は「わかりにくい」特別なもの、そこにある「よくわからない」過剰とも思える細部によって生まれるのである。人はその「過剰」なものに突き動かされ、驚くことによって、初めて新しい自分に生まれ変わることができるのである。

なにかの「わかりやすさ」にもとづく思考は、たいてい「プラトニズム」の胡散臭さがある。その思考形式は、ドゥルーズも書いているように「常識」、つまり「誰もが知っている」とか、「誰もが承認する」とかの外在的なものを前提にする。プラトニズムでは超越的な「オリジナル」と「コピー」の関係が設定される。そこでは、「コピー」は「オリジナル」に類似していることで選別され、「オリジナル」に見せかけだけで類似しているが本質は異なっているとされる「シミュラクル」は、まがい物として排除される。「プラトニズムの転倒」とは、この「シミュラクル」を復権させることである。シミュラクルが復権した世界は「オリジナル=起源」をもたない。モノとモノの間には、異なるポテンシャルをもつ「わけのわからなさ」が、稲妻のように連絡しあっている世界である。その世界では「類似」は「イデア」として超越的に与えられるものではない。それは、刺激を受け止めた個人が時間の持続の中で心の中に自由に形成していくものである。そして、その形成されたパターンは一定不変ではなく、新たな差異を見いだすことによって変化していく。具体的な例でいえば「善悪」の判断は、自己の内部で形成されるべき「倫理」的なものである。外在的な「わかりやすい」道徳として与えられるものではないということである。

「オリジナル」と「コピー」を「類似」という「わかりやすさ」で維持し、そうでないものを「シミュラクル」として排除するという考え方は、現在にいたるまで幅をきかせている。たとえば、読書感想文。この場合「オリジナル」は作者である。昔ながらの感想文は、「作者が伝えたかったこと」が重視され、「わかりやすい」読書感想文を書くとは「作者が伝えたかったこと」に「類似する」ことをひたすら目指す運動であり、それにもっとも近づいたものが、もっともよい感想文とされる。それがよい感想文であるのは、作者の「コピー」だからである。そうでない感想文は「シミュラクル」であり「わかりにくい」。また「作者が伝えたかったこと」は、プラトンがそうしたように「神託」として、教師から「わかりやすく」与えられる。これに対して、ドゥルーズ的読書とは、一回の読書から自分にとっての「差異」という「わけのわからなさ」を受け止め、それらの刺激をそれぞれの読み手が自分なりに関係づけて、独自なパターン形成を行うことで、誰もいままでしたことがない新しい読み方を「創造」していくことである。

すでに見てきたことから分かるのは、超越的なイデア=「わかりやすさ」を想定する限り、「反復」はコピーに過ぎず、「差異」はシミュラクルに過ぎず、「差異」と「反復」は厳然とプラトニズムにより峻別され両者が遭遇することはない。プラトニズムを転倒することで初めて、人は絶対的差異という「わからないもの」を自らの内部に反復として受け止め、自らの内に新しいものを創造することができる。それは、突飛なことではない。たとえば、子供の頃、恐怖ですらあった全く未知の水の中で、手足をバタバタとやっている内に、自然に泳ぐという方法が自分の中に生じはしなかっただろうか。知識として事前に教わったということはあるかもしれないが、決定的だったのは、まったく未知であった水と直接遭遇したことではないだろうか。外国語を学ぶのも一緒であろう。いくら外在的なイデア的方法論を知っていても駄目なのである。重要なのは外国語を「わからないもの」として直接強烈に遭遇し、反復を通じて自らの内部に生じたものとして文法や語彙を形成していく以外にないのである。日本語との「わかりやすい」類似に頼る人や、外部から与えられた方法は結局役立たない。学ぶとはそういった一般的知識=「わかりやすさ」を得ることではないのである。

ドゥルーズの「プラトニズムの転倒」は非常に射程距離の長い考え方である。マニュアルという「わかりやすい」ものがないと行動できない人間を見たり、電車の中で学生が図形や色だらけの参考書なんかを拡げているのを見ると、そういった色を付けたり、区切ったり、矢印をつけたりという「わかりやすい」パターン化は外在的に与えられるものではなく、自分の内面において、自らが反復して作りあげる場合にだけ価値があるのではないかとも思う。そこまで考えることを放棄してしまっていいのか。

世界はかつて「わかりやすさ」とは程遠い荒唐無稽な差異に満ち溢れたカオスであった。その世界を直接は受け止めることができない弱い人間は、フィルターのように内在面を「わかりやすさ」として構築しようとすることで、世界を間接的に見ようとした。そのフィルターは、イデアに照らしあわせて外界から「わかりやすさ」のみを選別しようとしている。それでは、創造に必要な「絶対的差異」はどうして、我々の内部に運ばれてきたのか? それはシミュラクルたちによって運ばれてきた。内部はコピーとは似ても似つかぬ差異を有しているが、外見はコピーと似ているために、やすやすとフィルターを通過してしまうのである。つまり、シミュラクルは、一見「わかりやすい」がその実は「わかりにくい」という「倒錯者の戦略」を実行しているのである。ドゥルーズがいうように、シミュラクルはユーモリストであるとも考えられる。ユーモアとは、たとえば、子供が親にお行儀よくしなさいと言われて、馬鹿正直に正座をして立ち上がったときに足が痺れてお膳をひっくり返してしまうときのような場合に起きる笑いのことである。コピーが運ぶわかりやすさとしての「愛」は知っていた。しかし、シミュラクルが運ぶ「愛」にある日不意打ちのように遭遇したとき、人は、本当にこれが同じあの「愛」だったのかと思うのである。

ドゥルーズの『差異と反復』は序章に続き「反復と差異」の章から始まって、最後は「差異と反復」の章で終わる。そこには、もっとも「わかりやすい」関係性を表すはずの接続詞「と」が見られる。その書物の中で、反復が差異へと、差異が反復へと生成変化しながら、驚くべき繊細な大胆さで両者の多様な関係性が不断に更新されていく。「それ自身における差異」「それ自身へ向かう反復」という章では、関係性以前に、それぞれの項がそれぞれ喜ばしい「わかりにくさ」で肯定されている。そして、「わかりやすい」と思われた接続詞「と」こそが拡散し偏心しながら不断に位置を変え続ける、あの充実しパラドキシカルな「わかりにくさ」になっている。

たとえば、夏目漱石の『三四郎』では、一見「わかりやすい」池が「わかりにくさ」となっている。それを物語り始めるのは、次の文章である。

三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。

池の面に反映した上下対称の深い世界の出現。その対称の中心となる「わかりにくさ」としての「池の表面」。このとき、「池」は三四郎の世界における拡がりの中心としてだけでなく、垂直方向を貫く強度の中心にもなることで、作品の座標軸となる。その中心が「強度の中心」でもあるのは、もちろん美禰子が出現するからである。

「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。「これは椎」と看護婦が言った。まるで子供に物を教えるようであった。「そう。実はなっていないの」と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、その拍子に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那を意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。

『差異と反復』の第四章で、ドゥルーズは「わかりにくさ」を微分 「dx」 として説明しているのだが、この「黒目の動く刹那」は、そのようなものである。女は「白い花」を三四郎のもとへ落とし、その「わかりにくさ」の波動は作品世界に伝わっていく。

三四郎は女の落として行った花を拾った。そうしてかいでみた。けれどもべつだんのにおいもなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いている。

この瞬間、「水の面=美禰子」という荒唐無稽とも思える「わかりにくさ」が生成される。このとき、「水の面」は「拡がり」というよりも、世界を反映する「鏡」であり、捉えどころのない「流動性」という側面が重要である。そのことは、二度目に二人が大学病院で出会ったとき、美禰子の衣装がどう描写されているかで確認できる。

着物の色はなんという名かわからない。大学の池の水へ、曇った常磐木の影が映る時のようである。それはあざやかな縞が、上から下へ貫いている。そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋になったりする。不規則だけれども乱れない。

そして、画工である原口の部屋の場面。美禰子は原口の絵のモデルになっている。

静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。

この場面は、原口によって、池の場面が「静止画」として写し取られることで、美禰子の「水の面」における「反映」の機能と「流動性」が決定的に廃棄されてしまうシーンとして読まれなければならない。

いままでの論述で多少なりとも明らかになったのは、自らに「新しさ」が生まれるのは、人が生を通じて「わかりにくさ」と出会い、そこで自分を見失なうような経験をするときに限られているということである。世界に「わかりにくさ」以上、具体性のあるものは存在しない。「わかりやすさ」に退廃し、驚くべき「わかりにくさ」が見つけられなくなった人がやることは決まっている。それは、既知なものを未知なものに仕立てあげ、それを抽象的な問題として上辺だけ憂慮してみせたり、さも驚いた振りをしてみせるのである。驚きがなくなった人は、既知と未知を混同するのである。

「わかりやすさ」の支配は希薄なだけに、それに気付くことは容易ではない。しかし、次のような例は少し注意すれば容易にわかるはずである。

1. 創造は「わかりにくさ」に触れ、自分を見失う経験である。事前に方法論があれば、自分を見失うことなどない。方法論は「新しさ」として、「わかりにくさ」の逡巡の中でその人に直接生まれる。

2. 「わかりやすい」問いは抽象である。たとえば、「映画とはなにか?」などと一般的に問うことは、制度的な「映画」の再認ではあっても新しさは生まない。「わかりやすい」問題は、「答え」がどこか遠くにあると思わせる。一方、具体的な問題とは、問いが「わかりにくさ」の逡巡の中で形成されつつ、同時に答えも形成されていくものである。たとえば、ヒッチコックの映画を見てその官能に呆然となるとする。そのとき「わかりやすい」問いがはじめて具体的になる。

「映画とは何か?」
「映画とはヒッチコックである」

3. 未知なるものは眼の前にないというのは「わかりやすい」嘘である。三四郎は眼の前で美禰子という未知なる「わかりにくさ」に言葉を失ったではないか。小説を読んだり、映画を見たりしたときに遭遇するただ凄いとしか思えない「わからないもの」。「わかりやすい」と思っていたことが、ふと「わからなくなる」こと。そういった経験が真に重要なのである。

我々は完全に「わかりやすさ」が存在しない世界に住めない。一切の同一性がない世界は、カオスだからである。したがって「わかりやすさ」の世界に住まざるを得ない批判者は、必然的に「わかりにくさ」を「わかりやすさ」として偽装した倒錯者=シミュラクルを目指すしかない。

「わかりやすさ」の世界では新しいものは創造されない。人は「わかりやすさ」の世界に住むと、そもそもそれが誕生した「わかりにくさ」の場を忘却させられるのだ。従って倒錯者はその記憶喪失させる力に逆らう必要がある。それには生成の場に最も近い「わかりにくさ」をいつも見続けている必要がある。それは、どこか? それは、表面である。映画を見ることでいえば画面であり、読書でいえば紙面またはそれに相当するものである。倒錯者は、無底から湧き出てくる映像や言葉があっという間に「わかりやすさ」に流れ落ちることに耐えながら、本来、映像や言葉が無底である「わかりにくさ」にいたことを忘却しないために出来事の現場である表面に固執し続けるのである。そして、ときどき、その表面に亀裂が入ったり、隆起する瞬間を見逃さず、それによって無底の世界の「わかりにくさ」を触知し、ささやかな倒錯的快楽を得ることで、生きているという実感をもつのである。

無底の「わかりにくい」世界が差異の場だとすれば、「わかりやすい」一般性は同一性の場である。それによる帰結はなにかというと、「わかりやすさ」の世界では、「私は違っている」といったところで、必ず他の人と類似してしまうということである。そこでは、気の効いたことを言ったり書いたりしても、結局、他のものに似てしまうという退屈な世界である。実際、そうではないか。どんなテレビを見ても同じような番組だし、ネットの記事を見ても変わり映えしない。ニュースは、同じ内容を何回も流す。「わかりやすさ」の世界の限界は、何かと何かがどんなに違うと主張したところで、どこかで「わかりやすく」類似してしまうことである。

倒錯者は、その事実を逆手にとる。小津安二郎の『麦秋』で杉村春子が「アンパン」という、その一言が、一家の別離につながるという荒唐無稽な「わかりにくさ」は、小津作品の間に見られる類似を検討した「わかりやすさ」の帰結として出てくることであり、それは一般性の「わかりやすさ」の限界を不意打ちするような亀裂であって、意義深い「わけのわからなさ」を垣間見させてくれる。

「わかりやすさ」の世界のウンザリするほど繰り返される具体性に支えられない言葉たちは、それぞれが違ったことを発言していると思い込んでいることで反復されているのだから、批判のためにその類似を眼の前に突きつけることは、しばしば有効である。今更、そんな「わかりやすい」ことを言うのは恥ずかしくないんでしょうかということである。もう一つは、生の具体性に支えられない前提を「わからなさ」の経験と照らし合わせて抽象に過ぎないことを検証することである。「生の具体性」を「現実的」という「わかりやすさ」と取り違えてはならない。「現実的」というのは「消極的」「保守的」を隠蔽する「わかりやすい」言葉である。

「わかりやすさ」は差異を解消し平衡を目指す運動であるから、本来あるべき葛藤をなかったように調和させようとする。そして、創造をさせないようにするのである。日本の社会を見れば、これはすぐにわかることだろう。

さらに自意識過剰な連中に対しては、「私」という自己同一性の「わかりやすさ」は、ベルクソンがいうところの現在と過去の共存であり、私を縮約の反対の弛緩の手続きで見れば、みな他者との出合い、他者の一つである物質から構成されているに過ぎないことを指摘するまでである。個性という「わかりやすさ」がもし存在するならば、それは貴重な他者「わかりにくさ」がもたらしてくれるものである。「私」は様々な他者と記憶を分かち合って共存しているという喜びの前提でしか成立しない概念である。

いうまでもないが「わかりにくさ」の場の存在があって、「わかりやすさ」が成立するのであってその逆ではない。「わかりにくさ」は「わかりやすさ」が崩壊してできたものではない。事態は逆であり、まず「わかりにくさ」が存在することで「わかりやすさ」が始まるのである。つまり「わかりにくさ」を隷属させ、忘却させるものとして「わかりやすさ」によるコード支配が登場するのである。したがって「わかりやすさ」の正当性を評価するには、つねに「わかりにくさ」の経験に立ち返ることが必要である。「わかりやすさ」において批判されるべきこととは、「わかりにくさ」の経験を抑圧し忘却させる、具体的でない事柄すべてである。「わかりやすさ」の抑圧は「距離」の導入によって始まる。「わかりにくさ」では、計測できる距離など存在しない。そこにあるのは強度だけであり、それは稲妻のように伝達するのである。いきなり何も見えなくなり、ぬーっといきなり「差異」があらわれる感じ、形さえも感じられない。あるのは胸がギューっと痛む感じ、冷水をいきなり浴びせられたときの感じ。それらは実際に我々が経験したことのある感触であり、それこそが「わけのわからなさの場」である。

たとえば、フィルム体験とは、距離が廃棄された「触覚体験」であり、断じて「視覚体験」であってはならない。つまり、作品に触れたときの「ひっかかる感じ」「ごつごつする感じ」「鈍い痛み」「刺すような痛み」「やさしく愛撫される感じ」「べたべたした感じ」「冷たい水をかけられたような感じ」がなによりも重要なのである。

「視線」とは「距離」を導入して行われる現実世界の「わかりやすさ」のための技術にほかならない。そして対象との「距離」が導入されたとたん触覚は機能しなくなる。記憶喪失がこうして始まる。「群盲象を撫でる」という譬え話ほど「わかりやすさ」のやり口を示すものはない。なぜ、群盲たちが、一般的なものをそれぞれ異なる物として「わかりにくく」捉えられていることの価値が顕揚されず逆に否定されるのか。この喩え話では、「見る」という行為では、象はつねに同一の「わかりやすい」ものに過ぎないことを批判すべきであろう。

「視線」は「わかりやすさの技術」に属する。作品を読んだり見たりして、そのストーリーを書くのは、作品をストーリーとして「わかりやすく」することである。それは作品からストーリー以外のものを切り捨てるということである。「物語」とは「わかりやすさ」の世界のものであり、煎じ詰めればそれは「欠如」を埋めるか、埋めないかの「わかりやすさ」に還元される。物語にもともと「波瀾万丈」などない。それは「わかりやすさ」の退屈な繰り返しである。「物語」を語るのが上手いか下手かは、たかだか技術取得の程度による「わかりやすさ」の程度の相対的差異にすぎない。作品は物語の「わかりやすさ」とは同じではない。作品とは物語に還元できない「わかりにくい」手触りをもっているものであり、しばしば「わかりやすさ」を廃棄させる力をもつものである。したがって、小説や映画は、それが物語の「わかりやすさ」でしかない限りは作品ではない。作品の価値は簡単に物語の「わかりやすさ」に還元できない「わかりにくさ」がどれだけあるかで決まる。「ひっかかるもの」はある種の「わかりにくさ」と切り離せないはずである。

「視線」の習得によって最終的には何がおきるのだろうか?そこでは、「視線」を「思考」の図式に規格化させて「わかりやすく」することが起きる。なんのことはあろう。結局、何かを見るとは「わかりやすさ」としてテンプレートの図式をあてはめるだけのことに過ぎなくなったのである。つまり「見る」ということは、「不可視」の抽象概念を位置づけるだけの話しになり、プレゼンテーションのアプリケーションで描いたチャートが「見る」ことなのである。いったい、「画面」は「細部」は、どこに消えていったのだろうかと思うのだが、「わかりやすさ」はそれを抑圧するのだからしょうがない。こうして、「見る」とは「わかりやすい」嘘をつくための営みとなってしまうのである。そこでは「質」ですら「量」と同一視される。映画作品の質を量に取り違えて位置づけるランキングの「わかりやすさ」を見よ。こうして作品とは、己のナルシズムの中にある風景の構図にあてはまる部分を都合よく取り出すための「わかりやすい」記号にすぎなくなる。そうして「他者」に直接触れられなくなった者は、ナルシズムに自足し、本質的に同一的な、共同体的な「わかりやすさ」しか生産しなくなる。いったい「作品」はどこにいったのだろうか? 作品とはなによりも新しいものを誕生させる「わけのわからなさ」であったはずである。それはどこにいったのだろうか?

気をつけないといけないのは、「わかりやすさ」を「否定」することなどできないことである。「わかりやすい」ものとして「否定」はすでに組み込まれているのである。たとえば、我々は「視線」を否定できない。できるのは、「視線」が形成する「中心」と「周辺」の階層=権力関係の「わかりやすさ」を常にユーモアやアイロニーの手段によって「ずらしていく」ことだけである。この辺は、フェティズムとほとんど同じであろう。なぜならば、フェティズムとは、本来あるべきものを「否認」し、代理となるものを受け入れることだからだ。ここでは「否定」と「否認」をドゥルーズのように区別することが重要である。「否認」とは、存在していることを知りながら、それを認めようとせず、存在を宙吊り状態にすることである。つまり、「存在する」ことを内心では肯定している点で「否認」は「否定」とは異なるのである。こうして、フェテッシュな倒錯者は様々な周辺を探索する。それは男性のファルスや女性にファルスがないことを否認して代理のものをいろいろ見つける多形倒錯のようなものである。わかりやすい「中心」に対して性急に「わかりやすさ」を宣告する儀式をとり仕切ることなく、いったんそれを保留すること。そして「周辺」を詳細に見ていくことで「周辺」によって中心の「わかりやすさ」がじつははらみもっている「わけのわからなさ」を明らかにしていくこと。これをとりあえずの「わかりやすい」愚かな結論としておこう。

 

f:id:noriharu-katakura:20170823061634j:image