ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

蓮實重彥

気晴らし (28)

Webマガジン「考える人」で韓国のインディペンデント映画誌「FILO」の第13号に掲載された蓮實重彥へのメールインタビューの日本語版公開が進行中。第一回は執筆中の『ジョン・フォード論』の現在想定されている構成が明らかにされており大変興味深い。カーネ…

気晴らし (16)

オダマキをまた撮った。ガザニア。テッセン (クレマチス)。オニマタタビ、つまり果物のキウィの木である。写真は雌株の花だと思う。すぐ近くにある公園のエノキ (榎) はもう花が終わり、若い実をいっぱいつけている。つい先日のことだが、蓮實さんが古井由吉…

気晴らし (7)

今月は蓮實重ーさんが古井由吉追悼の関係で、文芸三誌に寄稿されており、さらに「群像」ではインタビュー形式の『ショットとはなにか』までが始まったので、それらを追いかけるのに忙しく、本当はもう十分気晴らしになっている気がする。ジル・ドゥルーズは…

潜在的なものが目覚めるとき

前にもどこかで書いた気がするが、アブダクションとは C. S. パースが「演繹」「帰納」とは異なる次のような推論として導入したものである。:出来事 q がある:仮説 p だったら q を矛盾なく説明できる:だったら仮説 p はいくつも存在しえる解釈のひとつに…

悦ばしき変化

自宅から一番近くにある湧水地——鵠沼海岸で相模湾に注ぐ引地川の源流にあたる——がある泉の森公園を散歩していると、スプリング・エフェメラル (Spring Ephemeral) 、カタクリの蕾が出ていた。以前の記事にも書いたことがあるが、自分は東京オリンピックが終…

ああ、そうか

“Chênh Vênh” のベトナム語の発音で最後の鼻音は /ɲ/ であるが、その子音の前に渡り音のような /i/ が入っている。この子音の聞き取り (/n/ との区別) が難しいと思っていたら、それは日本語訛りのせいだと気がついた。「なにぬねの」と自分で言ってみると「…

変化に盲目

前回の記事の意図は、バイアス自体は善でも悪でもなく、バイアスすらも適切にTPO で論理に組み込んで有効活用できるのが人間の柔軟性であり、創造性であるということである。よく、バイアスをまるで邪悪な罠であるかのように、その暗黒面しか言わない人がい…

古論理

前回、シルヴァーノ・アリエティの『創造力 原初からの統合』を図書館で借りて拾い読みしたと書いたが、それは、彼が「古論理」とか「パレオ・ロジック」とか「フォン・ドレマスの原理」とか呼ぶものに少し興味があったからである。ちなみに、フォン・ドレマ…

いろいろ

アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958) の次のシーンは見れば見るほど不思議で、蓮實重彥が「ルプレザンタシオン」(1992 年春 第三号) の「周到さからもれてくるもの ヒッチコック『めまい』の一シーンの分析」でとりあげているシーンでもある。その…

時をかける少女

『未来からきた少年 スーパージェッター』は、1965 年 1 月から 1966 年 1 月までテレビ放映されたアニメーションだが、脚本の一人として筒井康隆が参加している。いっぽう、筒井のジュブナイル小説『時をかける少女』は、学研の学習雑誌「中三コース」の196…

比喩

『映像の修辞学』でロラン・バルトが本当にそのような純粋状態の「意味」が単独にありえるのだろうかと留保をおきながらも仮説として採りあげているように、「比喩」とか「含意」とかといった「意味作用」を考える道筋は 、「字義通りの意味」という概念を出…

リバティ・バランスを射った男

ジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance, 1962)。蓮實重彥の初期評論で一番好きな箇所は、この映画で白いエプロンをつけてリバティ・バランス (リー・マーヴィン) と決闘するジェームズ・スチュワートに…

ブヴァールとペキュシェ

前の記事で、「主題」はネットワーク (「網目」とか「磁場」とかともいう) の非線形性である増幅作用を通じた類似や反復にもとづく意味作用によって、希薄で多様で移ろいやすい「意味」をようやく開示すると書いたが、その同じ仕掛け=装置へ「主題」のかわり…

主題論的批評について

『リオ・グランデの砦』(1950) のクリップを再掲するが、もしこのクリップだけしか見ていないならば、モーリン・オハラがつけている「白いエプロン」が、白いエプロンである以上のものを参照していると考え、物語において明確に意味付けることは困難である。…

リオ・グランデの砦

このジョン・フォードの美しい『リオ・グランデの砦』(Rio Grande, 1950) は、すでに簡単に取り上げているが、また性懲りもなく書いてしまうことにする。この作品は何十回見ても、見るたびに感動してしまう。メキシコと合衆国の国境となっているリオ・グラン…

静かなる男

アーゴシー・ピクチャーズで製作され、リパプリックから配給されたジョン・フォード監督の『静かなる男』(The Quiet Man, 1952) は映画化の構想が実現されるまで、十数年の時を要した作品である。前の記事にも書いたけれど、蓮實さんの批評が好きなところは…

主題論的批評

最近は、蓮實重彥の批評スタイルを「主題論的批評」と呼ぶことにする申し合わせがどこかでなされたのか、ネットでよく目にする。https://www.excite.co.jp/news/article/Harbor_business_198860/しかし、そこで語られる「主題論的批評」は昔よく使われていた…

映像の修辞学

この「パンザーニの広告」の画像は懐かしいので取り上げてみることにした。1980 年に朝日出版社から出た『映像の修辞学』(ロラン・バルト著、蓮實重彥・杉本紀子訳) に所収された論文「イメージの修辞学 パンザーニの広告について」で分析されている広告写真…

リオ・ブラボー

1959 年のハワード・ホークス監督作品。原題は、“Rio Bravo”。クェンティン・タランティーノ監督が女性と付き合うにあたっては、まず『リオ・ブラボー』が好きであるかどうかをさりげなく確認し、もし相手が好きでなさそうだったらそれ以上の付き合いは遠慮…

パーソナル・ソング

数年前のサンダンス映画祭で話題となったドキュメンタリー映画『パーソナル・ソング』(Alive Inside, 2014) でも紹介されていたが、認知症の症状の緩和に音楽が用いられている。それがどこまで効果があるのか寡聞にして知らないが、人にとって特定の音楽 (パ…

1967 年

前回の記事に 1967 年の前後のことを書いたが、『ルパン三世』の漫画アクションの連載開始は 1967 年であることを知った。ちばてつやの『あしたのジョー』が少年マガジンに連載開始されたのは、1967 年12 月だから、ほぼ同じ時期である。1967 年は、戦後すぐ…

893 愚連隊

残念ながらリアルタイムで見た訳ではないけど、東映が他社を圧倒していた 60 年代のやくざ映画全盛の頃って本当に面白いなあと回顧しつつ、全編無許可で京都をロケーションしたという、まるでヌーヴェルヴァーグのような味わいのある、たまらなく愛おしい中…

多十郎殉愛記 (2018)

巨匠、伊藤大輔監督に捧げられた (1929 年、伊藤大輔と大河内傳次郎が初めて日活太秦でコンビを組んだ『長恨』がもとになっている) このチャンバラ映画を 84 歳の中島貞夫監督が京都のスタッフとともに作ったと聞いて、これは見ないわけにはいかないと思って…

豊かさ

なんとはなしに、平成最後の東京大学卒業式の総長式辞なるものを読んでいると、見田宗介さんの名前が出てきて、2018 年に唯一読んだ岩波新書である 『現代社会はどこに向かうか——高原の見晴らしを切り開くこと』が引用されていた。そこに出てくる consummato…

The Mule

バングラデシュから帰る飛行機で『ボヘミアン・ラプソディ』(2018) を見たが、高校時代にこの曲を合唱して歌詞を未だにほとんど覚えていて懐かしかったためである。その曲が納められているアルバムのタイトル “A Night at the Opera” とあの口髭から、当然な…

非常線の女

昨日の記事に少しだけ関連する。 昨年バングラデシュで行った健診結果をまとめ、学会発表のために来日したバングラデシュの医師と本日お会いしたときに、終わったばかりの学会発表のことが話題となった。その医師が発表を終えると、何故そんなに異常率が高い…

寝ても覚めても (2)

今月号の文芸誌「新潮」に蓮實さんが「選ぶことの過酷さについて —濱口竜介監督『寝ても覚めても』論」を発表している。蓮實さんがここまで擁護し煽動するのも久しぶりのような気がする。止むに止まれない理由で未だ映画を見ていない人もいるかもしれないの…

Song of the Vagabonds

今月号の文芸誌『群像』に松竹の城戸四郎について蓮實重彥が書いていたので『蒲田行進曲』の元歌である “Song of the Vagabonds” を掲載する。 前回記事の日本映画第一次黄金期の1936年についてもう少しだけ書くと、日本の年間映画館入場者数はこの年、 2.5 …

日本映画、第三の黄金期

濱口監督の『寝ても覚めても』(2018) のホームページに蓮實さんが、「濱口監督の新作とともに、日本映画はその第三の黄金期へと孤独に、だが確実に足を踏み入れる。」とコメントしているけれど、本当にそうなんだとバングラデシュで新しい健診サービスのオー…

Oh! Carol

発売されたばかりの『群像』の8月号に筒井康隆と蓮實重彥の対談「同時代の大江健三郎」を読んでいたら、ニール・セダカの “Oh, Carol” が出てきて、今日は当然これでしょう。1959 年の曲である。 歌詞はつけるまでもないと思うけども載せておく。 Oh! CarolI…